あるJICA在外事務所員の懺悔録
−ドナー調整はかくも難しい…
山田浩司
1.はじめに
世銀が主導するCDF(包括的開発フレームワーク)やPRSP(貧困削減戦略ペーパー)のプロセスは、開発途上国の現地で行われる対話プロセスを非常に重要視する。このため、このプロセスにおいて有意義な知的貢献をするためには、日本の現地出先機関(日本大使館、国際協力事業団、国際協力銀行など)が常にアンテナを張って、相手国政府、二国間援助機関、多国間援助機関、内外の非政府組織(NGO)、その他関係者の動向を観察し、情報交換し、なおかつ機動的に対応する体制を取っておく必要がある。それがないと、現場での調整プロセスの機会を逃してしまい、援助コミュニティの「蚊帳の外」という状況に置かれかねないのである。
この建前に異論をはさむことは難しい。万難を排してそのようなドナー調整に実際に日々尽力をされている関係者の方々がおられることも承知している。しかし、実際にドナー調整に積極的に関与していくことが、二国間援助の実施の過程で本来なされるべき日常のオペレーションとの兼ね合いで非常に難しいことも、一方で指摘しておかねばならない。本稿では、自分が実際に現場でのドナー調整に関わった経験の中から、日本が現地のドナー調整の場で知的存在感を示すのがなぜ難しいのか理由を幾つか抽出し、どうすれば改善できるのか、自分なりの考えをまとめてみたい。自分の前任者や当時の国際協力事業団(JICA)他、援助関係者を非難するのは、本稿の主旨ではない。個々人の自己努力の範囲ではどうにもならなかった課題を抽出していることを予めお断りしたい。
2.ネパール基礎初等教育プロジェクト(BPEP)について
私が1995年10月から98年5月までのネパール在勤時にほぼ一貫して担当を任されたのがBPEPというプロジェクトである。BPEPは、上位目標として2005年に初等教育就学率100%を達成することを掲げ、プロジェクト目標として、@教育へのアクセスの改善、A教育の質的向上、B教育行政運営実施能力の改善を掲げている。
BPEPは元々は世銀(IDA)の貸出プロジェクトが中心となっていて、プロジェクトの実施のために独立した事務局を持っている。世銀的な表現では「PMU」というものである。これに、ユニセフやデンマーク(DANIDA)といった他のドナーが、各々が高い優先順位をおくプロジェクトのコンポーネントを特定し、そこに拠出資金が投入されることを世銀のプロジェクト文書で明確にして、協調融資パートナーとして参加している。第1フェーズは1992年度〜97年度、第2フェーズは1998年度〜2003年度であり、第1フェーズから世銀の協調融資パートナーだったユニセフ、DANIDA、日本に加え、第2フェーズからはEC、フィンランド(FINNIDA)、ノルウェー(NORAD)が新たに参加した。
日本は、学校施設改善というコンポーネントに、無償資金協力を通じたパラレル協調融資という形態で参加して、これまで3次にわたる無償資金協力プロジェクトを実施している。第1次(94〜95年度)5.87億円、第2次(96〜97年度)11.58億円、第3次(99〜01年度)は最初の2年間で16.37億円を供与してきた。世銀のプロジェクトと異なり、日本の場合は単年度予算主義が基本となっているので、このように細切れのプロジェクト形態となっているのである。1998年度が空白となっている点には補足が必要である。日本の無償資金協力は、98年度に実施されるためには、97年度中にJICAによる基本設計調査が行なわれていなければならない。実は、この97年度は、日本の対ネパール二国間協力史上特筆すべき年度である。この年、日本から派遣された外務省経済協力年次協議ミッションが、ネパール政府が過去の無償資金協力プロジェクトについて、日本政府に対する報告義務を適切に履行していない点を指摘し、この義務が履行されるまでは新規無償資金協力を行わない旨言い渡したのである。BPEPは終了案件ではなかったので、報告義務の不履行とは直接は関係がない。しかし、この外務省方針のとばっちりを受ける形で、98年度の無償資金供与が実施されなかったのである。
日本の無償資金協力「小学校建設計画」は、基本的には校舎増設資材の供与である。BPEPのスクールマッピング調査に基づき、予め決められた各年度の校舎配分計画に従い、これまたBPEPが定めた校舎の仕様に沿って建設が行なわれる。日本は、予め支援対象の郡を幾つかに絞り、その郡の学校建設を担当した。ネパール政府と契約を結んだ日本の調達業者が、各郡に数ヶ所設けられる「デポセンター」と呼ばれる資機材搬入センターに資機材を搬入する。デポセンターから各建設サイトまでの運搬と建設は、住民負担で行なわれる。残りの郡では、学校校舎建設はIDAの貸付金によりファイナンスが行なわれる。
学校建設に際して、BPEPは、「学校建設委員会(SCC)」を住民内で設立するよう指導している。IDA貸付金によるプログラムの場合、SCCは1校舎当たり定額の建設資金をBPEPから受け取り、資機材の調達を自前で行なわなければならない。工程管理のノウハウのない住民が、自前で資機材発注を行なうことは至難の技である。一方、日本の無償資金協力の場合は、作業工程に沿って3回の資機材調達とデポセンターへの搬入を日本業者が行なうため、住民は、決められた期日にデポセンターに行けば、建設に必要な一定材質の資機材を必要な数量だけ入手することができる。結果的に住民は建設作業に集中することができるわけだが、調達・搬入に日本業者が関与している場合は、校舎1棟当たりの建設単価が世銀の場合に比べて高くなっている点は注意が必要である。
援助協調という点で興味深いのは、第1に、BPEPの校舎の配分や基本仕様の設計段階において、DANIDAのアドバイザーが技術協力を行なっている点である。DANIDAのアドバイザリーチームは計4人がBPEP事務局に配属されている。彼らの傭上費用の出所は調査したわけではないが、おそらく、DANIDAが世銀協調融資を目的として拠出したグラント(無償資金)により、ネパール政府が国際競争入札(勿論デンマーク人が落札できるような業務内容に絞り込んだのだろう)をかけ、傭上したものと想像する。従って、彼らの雇用主はネパール政府であり、ドナー会合の場でも彼らはネパール政府の立場に立って発言をしていた。
第2に、この日本と世銀とは、担当郡を分け合うだけでなく、日本の担当郡においても協調が行なわれていた。デポセンターから建設サイトまでの運搬費、住民参加で建設を行なう際の費用(熟練工の雇用、お茶代等)は日本の無償資金からは支出が認められていないので、シードマネーとしてIDA貸付金から捻出されていた。つまり、パラレル協調融資とは言いながらも、この無償資金協力は世銀貸出とは相互依存関係にあり、しかも無償援助額が大きくなるにつれて世銀側との事前調整が重要になる構造になっていたのである。例えば、IDAが5年間でいくら拠出できるかを予め決めてしまった後になって、日本がその3年目以降の学校建設数を突如増加させたりしたら、世銀側の資金計画が狂ってしまう可能性が多分にある。
3.新任駐在員に対する支援
ここでは、ネパール側で実施されているプロジェクトの進捗状況とは関係なく、JICAの人事ローテーションの中で在外派遣が決まった筆者が、第2章で述べたBPEPの第1フェーズ実施期間に途中から参入する形で始まったドナー調整の体験談である。
(1)本部派遣前オリエンテーション「ドナーとは普段からお付き合いしておきなさい」
JICAでは、新たに在外赴任が予定されている職員に対して、約3週間にわたる派遣前オリエンテーションが実施されている。その中でBPEPについて触れる可能性としては、企画部による援助協調のブリーフィングか、無償資金協力部における「小学校建設計画」の案件ブリーフィングの2ヶ所が考えられた筈である。勿論、両部は情報共有が適切に行なわれているであろうから、後者の方で世銀や他ドナーとの連携協調案件であるとの認識を持っていない場合、前者のブリーフィングにそれが反映される可能性は極めて低いと言わざるを得ない。実際、私が無償資金協力部で受けたブリーフィングは、この案件単独のものだった。他ドナーが絡む話だとは説明を受けていなかった。時間の制約もあり、最後は「あとは現地で実際にご覧になって下さい。」で終わってしまった。これからお話する現場での苦労話は、私の前任者も当然味わっている筈であるが、それが本部担当者との間で必ずしも共有されているとは思えなかった。
また、企画部のブリーフィングでは、確かに「援助協調」の重要性が一般論としては強調された。事務所からなるべく外に出る努力や、ドナー会議へのこまめな出席といった、日々の心掛けに属する話はいっぱい聞いた。コミットしたいけれども今はコミットできないような案件についてどうコメントするかといったテクニックも教わった。時間的にこれだけ話したら1時間のコマは時間オーバーである。各ドナーの国別援助戦略や援助ツール、プロジェクトサイクル、連携を組むとしたらどこをどう攻めたらよいかという、「敵を知る」類の話にはなかなか到達できない。
(2)赴任直後「あなたには教育セクターを担当してもらいます。」
このように複雑なマルチドナープロジェクトであることもつゆ知らず、私はネパールに赴任したわけであるが、赴任する時点での問題点を挙げてみよう。
第1に、派遣される職員のバックグランドは、必ずしも現地のニーズを反映したものではないという点である。教育セクターのドナー調整が難しく、時間を要するものであるという認識が当時のJICA事務所にあったかどうかは定かではないが、少なくとも教育セクターに通暁した人材の派遣が適切である旨、本部に進言しようと思えばできた筈である。しかし、人事ローテーションの一環として、教育セクターにさほど通じてもいない私が送り込まれてしまったわけである。勿論、当時のJICAに、教育セクターに強い職員を送って欲しいと要望してそれに応えられるほど、教育セクターの専門スタッフが揃っていたわけでもない。現地ニーズと職員のキャリアには相当大きいミスマッチがあった。
第2に、赴任当時のJICA事務所の事務管理体制がセクターワイドアプローチに十分対処できる形になっていなかった。例えば、ファイリングはプロジェクト単位で行なわれており、セクター全体を俯瞰するために読むのが必須と思われる文書と、特定プロジェクトの事務処理関係の書類とが同じファイルの中で混在するという状況が生じていた。これだと、JICAの特定案件の情報アップデートにはよいかもしれないが、他ドナーや教育省の動向を手早く頭にインプットするには面倒である。それでも特定プロジェクトのファイルの中にドナー会議の議事録がファイリングされているならまだいい。自分が他ドナーの動向を知りたいと思った時、ドナー会議の議事録があまりファイリングされていないという問題に直面した。過去の経緯、各ドナーの担当者名等の情報は殆どなかった。
第3に、ドナーと普段からお付き合いができる状況だったかどうかが疑わしい。JICAの在外事務所はどこもそうだと思うが、現在実施中の案件の監理で手一杯である。日本から派遣される調査団への対応、専門家への対応、日本大使館への協力等を同時に行なわなければならなかった。特に専門家からは、携行機材のこと、機材現地調達のこと、現地業務費の申請や精算、休暇と任国外旅行、一時帰国、免税やビザ延長、運転免許証といった許認可手続等、様々な問い合わせが寄せられる。教育セクターだけに専念できる環境ではない。現に私は、当時、林業、環境、農村開発といったセクターを常時担当しており、他の所員が休暇中の時は、農業や保健医療、防災まで担当したことがある。それでもなお、自分の担当プロジェクト件数が少ないことを理由に、障害者支援も私が担当することになった。目の前の懸案事項を裁くのが精一杯で、案件発掘、セクター分析、ドナーとの対話の順で疎かになっていた。一時BPEPに関する世銀ミッションにフルタイム参加して、事務所を留守にしていた時、「山田は仕事をやっていない」と某専門家からクレームを付けられたことすらある。
第4に、現地で自己啓発を行なうといっても、手段は限られているということを指摘したい。にわか勉強を始めたところで、現地には参考書などなく、セクタープログラムに関して世銀スタッフやコンサルタントが作成したレポートを読むしかなかった。今はインターネットが発達しており、セクター毎に本部にヘルプデスクみたいなものがあればもっと有効に活用できるかもしれないし、Eラーニングのツールが発達していて、現地で必要にかられて新たに教育セクターの勉強をゼロから始めたいと思っても、やる手段がないわけではない。
(3)初めてのドナー会議「とにかく行けばいいから・・・」
そのような初期環境の中、初めてのドナー会議に出席することになる。
ドナー会議に先立ち、当時未だ事務所にいた前任者からにわかブリーフィングを受けた。と言っても、無償の小学校建設計画の関連ファイルを1冊渡され、「B/D(基本設計調査)報告書が最もコンパクトなので読んでおいて下さい。」と言われただけであった。B/D報告書が参考にならなかったわけではなく、確かに日本の無償資金協力のメカニズムについてはあらかた理解することはできた。ただ、問題は他のドナーが何をどのようにやっているかであり、B/D報告書を含め、一般的に日本語の報告書類は他ドナーの援助ツールとプロジェクトサイクルをどの程度理解した上で書かれているのか疑問である。敵を知るという点では、あまり参考にはならなかった。
当時おそらく最も参考になった筈なのは、世銀職員による事前評価報告書(スタッフ・アプレイザル・レポート)だった。世銀が何を考えているかだけでなく、世銀によるネパールの教育セクターの現状認識、問題点の把握が書かれていた筈だからだ。もし私が、渡されたファイルの中にこの報告書を見つけていたら、真っ先に読んだであろう。当時はこの報告書がそれほど重要だとの認識すらなかったから問題視することはなかったのだが、ではJICAはこの報告書を入手していたのかというと、確かに入手はしていた。では、それがどこにあったかというと、後でわかったのだが、複写も取らずに原本を本部の無償担当部に送付してしまっていたらしい。
世銀の案件決定までの流れを事前に理解しておれば、JICA事務所にスタッフ・アプレイザル・レポートがない点にもっと早く気付いていたと思うし、また自分が呼ばれたドナー会議が、世銀のプロジェクトサイクルの中でどこに位置するものなのかを理解することもたやすかった筈である。会議がどのような経緯で開催されるかも理解せずに会議に出ることは非常に難しい。
初めてBPEP関係の会議に出たのは、学校施設の改善が教師と生徒に与えた影響(インパクト)に関する調査結果を関係者にフィードバックすることが目的の会議だった。この調査は、DANIDAのグラントでBPEPが実施したもので、調査の施主はBPEP、実際の業務はネパールのコンサルティング会社が受注して行なわれた。今だから思うが、こうした調査結果が共有されていればいいじゃないかという議論はあるものの、学校施設の改善のコンポーネントを大規模に支援していたわけではかならずしもないDANIDAが、このような調査に関わることには疑問もある。世銀-DANIDA方式と日本方式には、建設の質と費用の点でそれぞれ一長一短がある。両方式間で、教師の教育姿勢と生徒の学習姿勢に有意な差があれば、日本方式の優位性を主張することができるわけであるが、資金の出所がDANIDAということは、逆に日本方式だけが一方的に不利な評価を受けた可能性すらあった筈である。結果的にはそのような視点から調査が行なわれていなかったのでこれが論点として浮上することはなかったが、私はこの調査に関してはJICAが一部分でも調査費用を負担するか、或いは調査方法について積極的に口を挟んでおく必要があったと思っている。
このような調査で必要な調査項目に関する意思決定は、BPEP内にいないとなかなか把握ができない。このため、アドバイザリーチームがBPEPに配属されているDANIDAの影響力がかなり光っていた。当時、BPEP内に日本人のアドバイザーを1人でも入れることができていたら、この調査へのJICAの関わり方はもっと違っていたことだろう。勿論、一つの調査に関して他ドナーと協調融資を組むような融通性は、当時のJICAの会計処理上できたかどうかという問題もあったかもしれない。欧州のドナーのグラントや世銀の貸付金のように、いったん受益国政府の口座に入金された後で使途について融通を利かせることができるならば、クイック承認、クイック支出ができるわけだが、JICAがこれに対抗するには、在外事務所の裁量で動かせる予算をもっと潤沢に積んでおく方が望ましい。
(4)世銀・DANIDA・ユニセフ合同中間評価「皆の言っていることがさっぱりわからない・・・」
次に各ドナーの代表者が集まる機会は、その2ヵ月後に訪れた。世銀のBPEPプロジェクト貸付では、5年間のプロジェクトの中間期に合同で中間評価を行なうことになっていたからだ。
初めてのドナー会議は、主に現地に籍を置く教育関係者が主に出席していたので、他ドナーからの出席者も殆どが現地駐在で、言ってみれば私と同じ立場だったわけだから非常にわかりやすかった。しかし、BPEP中間評価になると、人間関係は複雑の度合いを増し、全員の出席の背景を把握するのが非常に難しかった。DANIDAは、BPEP配属のアドバイザリーチームに加えて、コペンハーゲンのDANIDA本部から来ていたマネージャーもいたし、世銀もカトマンズ事務所の教育スペシャリストに加えて、ワシントン本部からタスクマネージャーとタスクチームのメンバー(職員、コンサルタント)が出てきていた。加えて、インドから参加していたコンサルタントもいた。今世銀に籍を置いてみてこれら参加者一人一人の位置付け、なぜこのようにバラエティに富んだ外国人が参加しているのかがなんとなく理解できるようになったが、私がネパールで教育セクターに関わり始めたばかりの頃にそれを適切に理解することは至難の業だった。ドナーだけではない。ネパール側の出席者の中にも、教育省やBPEPの関係者だけではなく、トリブバン大学教育学部の教授とか、教育省を引退した有識者とか、一人一人がなぜ今ここにいるのか私には全く理解できなかったのである。しかも、この場に集う殆どの参加者が、教育分野の学位を持ったエキスパートで、特に教育行政に通暁して政策論議に応じやすい立場にあった。学校建設を通じてしか初等教育を見ていなかった日本とは大きな違いである。
さらに面食らうのは議論の進め方である。議論のためのフレームワーク作りの議論からスタートするため、教育学、教育行政のバックグランドがないと、議論のフレームワーク作りに加わることが非常に困難である。ドナー会議といったら出席者一人一人が言いたいことを言って終るというパターンがかなり多いが、的を外した発言はとてもできる雰囲気ではなく、そもそも議論に付いて行くこと自体難しい。しかも、日本の調査団と違い、世銀や欧米ドナーの派遣するミッションの場合、2週間程度の滞在日程のうち、最初から決まっているのは初日の最初の会合のみで、会議毎に、次はどこでいつ集まるかが話し合われるため、途中所用で中抜けしたりすると、後で会議に復帰するのが難しい。かといってずっと会議に出席していると、他方面にしわ寄せが出るのである。この業界を客観的に見わたすと、日本のように調査団の日程をガチガチに事前に組むのはむしろ例外の部類に属するように思われる。ネパール政府にとって世銀は超大口のドナーであるわけだから、ミッションが来るとなったらその滞在期間は他の予定は入れず、いつ何時に会議を要求されても即座に対応できるよう態勢を整えている。
もう一つの驚きは、配布資料の分量である。教育省、BPEP関連資料の発行件数は膨大で、これは当時のネパールでは極めて異例だったように思う。各々の基礎資料の位置付けや経緯はよくわからなかったのだが、通常、ミッション現地到着の1週間前までには各ドナーに配布され、参加者はネパール側が取り揃えた資料を一通り読んだ上でミッションに臨むことになっていた。1000ページにも及ぶ膨大な資料を、1週間程度で読破することなど至難の業であるが、読む際の勘所などわかろう筈もなく、せいぜい200ページくらい読んでくじけてしまうことが多かった。
繰り返しになるが、今になって痛感させられるのは、世銀のプロジェクトサイクルや援助ツールを知らずしてドナー会議で世銀と渡り合うことなど困難だということである。当時、世銀ミッションの参加者がさかんに「ジャパンファンド」という言葉を使っていた。日本政府の資金を得て教育情報管理システムを整備するのだと言っていた。今になって思えばこれは日本政府(財務省)が世銀に拠出している「政策・人材育成基金(PHRD)」の技術援助グラントプログラムのことを言っていたのだなとすんなり理解ができるのだが、当時は、日本政府の誰が自分の知らないところで世銀と交渉して資金援助の約束をしたのか、なぜそれが自分のところに情報として伝わって来なかったのか、全く理解できなかったのである。
(5)JICA教育専門家「何かやっているようですね」
当時、ネパールには中等教育の理数科カリキュラム改善分野でJICAの長期専門家が1人派遣されていた。JICAの技術協力専門家の多くは、特定技術の指導を目的として派遣されている。特定分野には強いが、セクター全体の動向を把握するマインドは乏しいのではないかと思った。勿論、専門家は予め要請書に明記された業務内容が決まっているわけなので、中等教育の理数科しかカバーしていない専門家を、ドナー会議の道連れにしようなどと私が考えていたわけではないが、少なくとも事務所員にとってのメンター、私的アドバイザー役としては期待する部分はあった。当時、中等教育では世銀やDANIDAのプレゼンスが殆どなく、むしろ英国やアジア開発銀行の方が頑張っていた。当時派遣中の専門家は、こと中等教育の理数科カリキュラムに関しては、ドナーの動向も適切に把握し、国内のネットワークもかなり張り巡らせていたので、専門家の専門家としてのパフォーマンスには評価もしている。でも、BPEPに関しては当事者意識が殆どなく、何がどう議論されているかにはあまり関心を持っておられなかったように思う。
日本の技術協力は一点集中型で、カウンターパートはある省庁の特定部局や下部機関であることが多い。特定機関、特定個人の能力強化には非常に強い。しかし、たとえば教育省全体の能力強化を図るような協力にはあまり比較優位を持っていない。逆に言うとそこに多国間援助実施機関や他ドナーと連携する余地があると言える。
また、JICAの専門家派遣の実施とそのタイミングは、往々にしてJICA側の都合による場合が多い。例えば、先述の中等理数科教育の長期専門家が、その業務との関連でノンフォーマル教育の短期専門家派遣を要請したところ、派遣を希望した年度には予算逼迫を理由に派遣されず、翌年度には、予算に不用見込みが生じたことを理由に年度末近くになって突如として派遣が決定したというケースがあった。だが、この短期専門家が着任した時には既に長期専門家は帰国済みとなっており、シナジー実現どころか、単発の短期専門家派遣ではどこまで開発効果を期待できるのか極めて怪しいと感じざるを得なくなった。JICA側の予算とか人材リクルートの都合だけで派遣実施の可否や派遣時期を決めていては、途上国にとって本当に必要とされている分野で効果的なプログラム型の技術協力を実施することにはならない。ノンフォーマル教育といえば、中等教育と違って基礎初等教育と関係が深い。従ってBPEPに関心を持たれるかとも思ったが、結局BPEPという大きな枠組みには興味を持たず、単に自分達の関心事項と近い分野の研究だけに没頭して2ヵ月を過ごされるに留まった。
(6)要望調査「そんな専門家、日本でリクルートのあてがあるのか」
前節でも少し述べたが、日本の技術協力は、その国にとって何が課題なのかという認識を正しく持っていたとしても、人材リクルートのあてがなければ要請を挙げ辛いという傾向がある。例えば、政策全般について助言を行なえる専門家が欲しいと言ったところで、日本側にリクルートのあてがないと、年1回の要望調査の中でその要請を盛り込んでも、優先順位が低く付けられる。特に、教育セクターの場合、教育行政全般に通じた政策アドバイザーの人的リソースが今の日本には非常に少ないため、往々にして専門家派遣の要請を挙げても後回しにされやすい。
逆に、既に現地に派遣されている専門家がいて、その専門家のツテ(各省庁や研究者のネットワーク)でリクルートのあてがある場合は、課題認識とは関係なく、特定技術の専門家派遣が簡単に実現してしまうケースも多い。
専門家派遣事業だけではなく、研修員受入事業についても同様の問題がある。以前、個別一般研修枠を活用して教育セクターの重要人物を日本に送ろうとして事務所の研修員事業担当と相談したところ、日本での受入先のあてがあるのかと先ず指摘され、受入先を自分で探してから要望調査票を作成すべきとアドバイスされた。在外赴任して初めて教育セクターを担当する者が日本国内の教育セクター関係者にネットワークを持っているわけがない。案件実現の目処を自分で立てないと案件が動いてくれない、だからといってそんな芸当を現地に派遣されている職員がするのは非常に難しい。
このように、現地サイドで日本のリソースのあてがない案件を、本部で受け止められるキャパシティがないことが、日本の技術協力が日本にとってやりやすいところから手を付けて、本当にその国が必要としているところには、日本の人的リソースの問題から手を付けられていないケースはかなり多いとの印象を植え付ける原因になっているように思う。勿論、JICAも、専門家公募制度や課題別要望調査、分野別ネットワーク等を導入して対応を進めている。以前に比べて、「あてがない」という理由だけで要請を自粛するよりも、取りあえず高い優先順位を付けて要請は挙げてみようという雰囲気が醸成されつつあるのは良い傾向だと感じている。しかし、専門家公募は、各省庁が手を挙げなかった箸にも棒にもかからない案件の最後の拠り所として行なわれている傾向が依然としてあり、本当に良い人材を日本国内でリクルートできるという保証は必ずしもない。
また、BPEPのようなセクターワイドな協力は、JICAの組織上どこが窓口になるのかわかりにくい。当時の理想は企画部地域第2課だったが、同課の職員数では、このようなアプローチにプロアクティブに関与できるキャパシティはなかったのではないかと思う。その後JICAでは地域部ができて、どこが窓口なのかはわかり易くはなった。しかし、地域部のネパール担当が、教育セクターのスペシャリストであるわけでは必ずしもない。開発調査やプロジェクト方式技術協力を実施している事業部がセクター総括を担当すべきだが、動いている案件もないような国のそのセクターにどこまでオーナーシップを持って総括に取り組んでくれるのかは大いに疑問である。当時の無償資金協力部にBPEPのドナー会議のレポートを送っても反応は全く返って来なかった。
(7)ローカルスタッフ「そんな急に『勉強しろ』と言われても・・・」
多くのJICA在外事務所の場合、現地で採用された現地人スタッフは、日本から派遣された事務所員のロジスティックス部門のバックアップ、即ちアポ取りとか議事録作成とかをやる体制になっていた。予算配分上、日本人所員10人につきローカルスタッフは7人が大体の基準である。当時のネパール事務所の状況では、日本人所員一人一人が担当セクターを持っていても、ローカルスタッフが担当セクターを特化できるような体制ではなかった。つまり、「10+7=17」ではなく、「10+7=10」なのである。国際機関のカトマンズ事務所では、本部派遣のスタッフと現地採用のスタッフの間で、同じプログラム・オフィサーなら同じ業務内容で担当案件やセクターを平等に分担している。A氏は本部採用で派遣されてきて教育セクターを担当しているが、B氏は現地採用で障害者支援を担当しているという具合だ。
おそらく、本部採用、現地採用の分け隔てなく、教育セクターに強い者を当該国の教育セクターに張り付けて長く担当させる体制が理想なのだろう。だが、当時の私はそこまで到達せず、当時ペアを組んでいたローカルスタッフには、自分がドナー会議やBPEPとの打ち合わせに出られない時に代わりに出て、それなりに発言をしてくれることを期待していた。しかし、私と組まされたからといって元々教育セクターのスペシャリストでもないローカルスタッフが、いきなりドナー会議で発言することなど、私が自分で発言するのと同じくらい難しい。
ローカルスタッフは、古株になればなるほど日本的組織の中での生き残り方を知っている。許認可や諸手続で無理が聞けることが一つの技能として評価され、勤続年数が高くなるほど給料は上がり、既得権益化する。世銀で働く機会を得て初めて思ったのは、世銀ではこのようなロジに強いスタッフが長年世銀に勤めているからといって新任のマネージャーよりも高給を取るような体系にはなっていないということである。それに比べてJICAでは、ロジを上手くこなしていれば高い給料が貰えるわけだから、古株職員に新たな責任を持たせても、彼らがやろうというインセンティブがない。このような古株職員が固定化されると、援助重点分野に合わせて新たにプログラム・オフィサーを採用する余地が限られてくる。
また、別の意味での「ねじれ現象」も見られる。私がネパールにいた頃感じていた矛盾は、新人プログラム・オフィサーのリクルートの際、修士取得を資格要件に付けていた点である。本部採用のJICA職員の場合、修士や博士を取得している者はそれほど多くない。現地採用の高学歴のスタッフが、本部採用の学士卒の派遣職員とペアを組まされ、ロジ的業務で使われた場合、やる気を無くす可能性は高いと思う。実際、私自身がそれに近い経験をしている。私自身の管理能力の問題は認めざるを得ないが、一方で、現地採用のプログラム・オフィサーが特定分野の担当を1人で任されて頑張れるほど、今のJICAの文書は英文化が進んで情報共有が行なわれているわけでもない。国際機関的なローカルスタッフの活用の仕方には程遠いのが実情である。
(8)ドナーの苛立ち「JICAはいつになったら(無償資金協力に)コミットするのか」
BPEPにおいて進んでいたドナー協調とは裏腹に、日本では、ネパールの教育セクターから足抜けしようとしていると見られても仕方のない出来事がいくつか起こった。1つは、第2章でも触れたように、1997年当時、多くのネパール無償資金協力案件について瑕疵検査報告書の提出状況が悪いという理由で、基本設計調査の外務省別途指示が1年以上出なかったこと。これには例外がなく、1年近くにわたって無償資金協力が新規で実施されなかった。もう1つは、教育省カリキュラム開発センターへの青年海外協力隊員派遣をフェーズアウトする方針をJICAが決めたことである。同センターが、代々派遣されてきた協力隊員をJICAから提供される役務と見なして、センターが行なわねばならない人材と予算の確保をやっていないことへの抗議の意味もあったらしいが、この方針は事務所の協力隊調整員の間で決められ、同じセンターに専門家を1人送り込んでいた私との間で意見調整は全く行なわれなかった。
そのような状況下、特に日本が98年度に向けた小学校建設への金額コミットをなかなか行なわなかったことが理由で、ドナー、特に世銀とDANIDAは苛立ちを強め、ドナー会議の度毎に、いったいいつになったらJICAはコミットするのかと発言した。無償資金協力に関して、案件の実施決定の権限はJICAではなく外務省に属する。JICAが関係してくるのは、要請案件の実施検討が決定された後に行なわれる基本設計調査と、交換公文締結後の実施促進業務、案件終了後のアフターケアに関する部分だけで、日本政府が受け付けた要請案件について、基本的に採択する方針で実際いくらぐらいかかるか基本設計するよう調査指示が外務省から来るまで、JICAとしては動くことができない。従って、小学校建設の話を「JICAがコミットする」という認識は誤りである。しかし、日本国民にとってすら複雑に思えるこうしたアレンジメントを、他の援助機関の関係者が理解することなど、容易であろう筈がない。ドナー会議等の席上で何度説明をしたところで、どうしてもわかってもらえず、JICAが批判を浴びる形になった。
第2章で述べた通り、世銀のシードマネーを必要とする日本の無償資金協力が最も出遅れるということは、世銀BPEPの資金計画を大きく左右する可能性が高い。5年間のプログラム期間に対して、2〜3年分しか支援を確約できない日本の援助方式では、世銀側が常に日本が足抜けするリスクを背負わなければならない。従って、彼らが日本の出方に関心を持つのは当たり前のことなのだが、では、ドナー会議に単身出席していたJICAの代表者に苦情をぶつける以外、彼らが日本政府、大使館への働きかけを行なったのかといえば、そうした事実はない。日本の援助関係者が他の援助機関の援助プログラムについて理解していないのと同様、他の援助機関の関係者が日本の複雑怪奇な援助プログラムを理解することは至難の業である。BPEPに関与していた欧州のドナーは、グラントを世銀の信託基金にプールすることで、世銀とのジョイント協調融資という共通のスキームで対応がしやすいが、日本の無償資金協力は、金額は大きいが世銀とはパラレルに拠出される。技術援助にしても、いったん受益国政府の国庫に入った援助資金を元に受益国政府が国際競争入札をかけてコンサルタントをリクルートする世銀・欧州方式に比べ、JICAがリクルートして専門家を送り込んで来る日本方式は、送り込まれる専門家が最も能力的に優れ、人件費も国際競争入札と比べて安くあがるかどうかがよく見えない。とかく日本の援助形態は特殊で、他ドナーだけでなく、受益国政府関係者にすら理解することが難しい。
では、私自身がドナー会議に単身出席する中で対処できたのだろうか。現地対応するには、予めどこまでしゃべっていいのか関係者間ですり合わせをしておくことが必要だったと思う。JICA事務所内で済む話だったらそれは可能だろう。しかし、JICA本部はどこが窓口なのか特定できなかった。また、大使館に関しては、教育担当の書記官が96年夏に交代した後、後任書記官の個人的関心が主に保健医療分野にあったため、「忙しいからJICAで対応しておいて」という形でBPEPから遠のいてしまった。この点は後で改めて述べる。
(9)調査団「それは調査団の責任範囲外だ」
私のネパール在任期間中、教育セクターに関して、JICAは次の3つのミッションを送ってきた。
1)第2次小学校建設計画基本設計調査(1996年2〜3月):先に述べたBPEP合同中間評価ミッションの1ヶ月後
2)特定テーマ評価調査「教育」(1996年7月、11月)
3)プロジェクト形成調査「基礎教育」(1997年9〜10月):BPEP第2フェーズに向けた世銀・DANIDA・EC合同プロジェクト準備ミッションの真っ最中
上記1)に関しては、過去の経緯から派遣が近々行なわれると予めわかっていたが、前任者が希望していたBPEP合同中間評価に時期を合わせた派遣は、日本側の都合もあって実現しなかった。2)に関しては、評価監理課が各年度事業の中でアドホックに決めて行なう事後評価なので、世銀のOED(評価監理局)が行なう事後評価同様、オペレーションの流れとは関係なく実施のタイミングが決まってくるものだ。評価対象には第1次小学校建設計画が含まれていたので、評価結果が次の第3次小学校建設計画に繋がっていって欲しいという期待もあり、受入は積極的に行なわれた。
3)は、幸か不幸か、BPEPのミッションで他ドナーの代表者が勢ぞろいしている真っ最中に派遣された。従って、第3次小学校建設も含め、BPEP第2フェーズに向けて、本部がどのように取り組んでくれるのか、ドナー会議の場での発言に期待した。しかし、肝心のドナー会議に出た団長は結局何も発言をしなかった。後で理由を尋ねたところ、「我々はオブザーバーとして出ており、特定分野に関して積極的な意見を述べる立場にはない。」と説明された。プロジェクト形成調査ミッションがプロジェクト発掘形成に徹するという姿勢は確かにその通りなのかもしれないが、過去からの積み重ねの中で、まさかゼロから基礎情報を積み上げていくわけではあるまい。ミッションがネパール入りした時点で、既に日本のリソース的に何ができるか、ネパールの状況を照合した上でこの国では何ができそうか、示唆するくらいのことはできそうなものである。それを他ドナーがいる場で紹介したら「JICAがコミットした」とでも取られる危険があるというのなら、せめてJICA本部がネパールの教育セクターの何が問題だと認識しているのかくらいは言えたのではないかと思う。
また、2)についても後日談がある。1996年11月に現地調査を終了した筈の評価だったわけだが、和文の報告書がドラフトの形で私の手元に届いたのが、なんと98年3月だった。それまで1年以上の間、評価結果は現地には伝えられなかったわけである。巷間漏れ聞くところによれば、97年9月に来訪したプロジェクト形成調査ミッションはその評価結果をちゃんと踏まえていたらしい。情報共有が円滑に行なわれていない好例といえる。それでも折角出来上がった評価報告書である。せめて要約部分だけでも英文化してネパールの関係者間で共有できないかと評価監理室に尋ねたところ、英文化する予算はないとのつれない回答が返って来た。日本のODAの良くない点であるが、常日頃から「顔の見える援助」を唱和するのであれば、せめて調査の成果品を英文版で提示するくらいのことは徹底しても良いのではないか。本部がそのような予算を持っていないなら、在外事務所の広報予算や現地業務費の余りをかき集めて、現地での英文版作成に流用したってよいくらいである。会計制度上、在外事務所でのこのような予算流用は認められていないという問題がある。在外事務所にもっと権限を委譲すべきだという議論は前々からあるが、権限を委譲するとは、このようなフレキシブルな予算の使い方を事務所の判断でできるようにするということなのだ。
(10)日本大使館「私は忙しいから、報告だけして」
当時、日本大使館には経済協力担当班として、3人の書記官が配属されていた。1人は外務省プロパー、1人は農林水産省アタッシェ、1人は建設省アタッシェだった。教育セクターは外務省プロパーの書記官が担当していた。但し、この方の前職は本省技術協力課の保健医療セクター担当。当時のネパールは、橋本首相お肝いりの保健医療協力案件が多く、自ずと保健医療に力が入ったとしても不思議ではない。同セクターに個人的関心が集中した上に、この書記官は草の根無償資金協力の案件審査も担当しており、教育セクターには全く手が回らない状況だった。以前は、BPEPは、ドナー会議がある度に大使館にも招待状を出していたが、2年近くにわたって出席を得られなかったので、いつの間にか招待状すら発出しなくなった。
だが、教育セクターに積極的ではないとはいえ、情報が入ってきていなかったわけではない。JICAの専門家の多くは、JICA事務所に報告をするだけではなく、大使館の経済協力班にも定期的に報告を行なっている。専門家経由でセクター情報は得ているわけである。しかし、この場合、専門家がセクター全体に通暁しているわけではないという問題が、そのまま書記官のセクター全体のイメージ把握にも繋がっている。専門家経由の情報であると、識字教育を通じた保健啓蒙普及とか、中等の理数科教育といった特定分野には強くなれるだろう。しかし、BPEPで誰がどこで何をやっているのか、他ドナーが何を考え、どこにアプローチしようとしているのか、整理があまりされていなかったのである。
4.結局、何をどうすればよかったのか
理想先行のプロジェクト形成調査、なかなか実現しない案件、ドナー会議の度に感じるストレス、仕事を疎かにしているとの専門家からの突き上げ、事務所員の交代に伴う一時的バックアップ、それらの当然の帰結として、私は初めて胃潰瘍を患った。今振り返ってみて、あの時何をどうすれば良かったのか、薄っすらとながら見えてきた部分もある。
(1)他ドナーの援助メカニズムへの理解
繰り返しになるが、世銀貸付実行までのプロセスを理解していれば、98年度に日本の無償資金協力が開けた「穴」は、絶対に避けるべきだったと思う。また、世銀の信託基金、特にジャパンファンドと呼ばれるPHRD基金への理解を深めておく必要があった。PHRDは世銀の貸付プロジェクトの準備に使えるアンタイドのグラントであるが、第3国研修や本邦研修等、日本の二国間援助でできてもPHRDではカバーできない支出項目があるし、セクタープログラムの入り口段階での議論から、PHRDに代わってJICAの開発調査事業が世銀の貸付プロジェクト準備を担うケースがもっとあってもよいように思う。ドナーとの対話を普段から絶やすなというのは、単に情報収集の面からだけでなく、世銀にできないこともJICAだったらできるという意味でのマーケティングとして是非必要である。特に、インドネシアやタイ、フィリピンといった東南アジア諸国とは違い、日本が二国間援助だけでフルセットの課題対応メニューが組めない中小国の場合、他の援助機関のリソースを上手く利用するマインドは欠かせない。忙しいのはやはり言い訳にはならないと思う。
(2)現地ニーズに合った人材の配置
プロジェクトベースではなく、当該セクターの政策全般に関与できる人材をJICAの在外事務所に配置し、派遣期間を長めにとるといった配慮も必要だと思う。一橋大学浅沼教授がおっしゃっている「政策要員」という考え方である。政策アドバイザー型専門家の派遣が近年増えてきており、国によってはセクタープログラムのドナー会議に、JICAの専門家が日本代表で出て発言しているケースもあるようだが、元来専門家は相手国政府の省庁に配属され、その省庁の省益を担う発言が求められるため、ドナー会議で日本の立場を代弁するのには無理があると思う。この役割は、難しくともJICAの在外事務所員や大使館の館員が担わざるを得ないのだ。但し、教育セクターに限れば、JICAの職員にそのような専門性を有した者が豊富にいるとは考えられない。従って、JICAが職員をリクルートするに当たって、教育セクターに強い即戦力の人材を採用するといった対応が必要だと思うし、現地においても、教育セクターに通じたローカルスタッフをその名の通り「プログラム・オフィサー」としてリクルートし、日本人派遣職員と同等の扱いをすることも検討してみてよいのではないかと思う。
(3)現地事務所員をバックアップする体制
現場にいても、職員が適宜職員研修や本部からのコンサルテーション・サービスが受けやすい体制、制度を構築する必要がある。近年はIT(情報関連技術)が進んできているので、本部の開発課題に対する分析力や専門的能力の強化とともに、在外事務所員が照会してきた場合に即座に対応して適切な指示を出すヘルプデスク的機能を本部に設けるとともに、普段から在外職員が特定分野について自己研鑽を続けられるよう、Eラーニングツールを駆使した職員研修システムを構築すべきである。
また、派遣専門家やローカルコンサルタントを、事務所員への「政策アドバイザー」として再定義することも1つの方法だと思う。ドナー会議の場で発言するのはあくまでも事務所員であるわけだが、発言内容をまとめてゆく際に、助言を求められるリソースパーソンを何人か特定し、メーリングリストを通じて助言を募るという方法である。この場合の事務所員とは、日本人派遣職員だけを指すわけではない。前節でも述べた通り、事務所のニーズに合った専門性を持つローカルスタッフをリクルートし、「1人1セクター」を徹底させることも考えられる。ゼロベースで専門性の高いローカルスタッフを雇うことが困難な場合の妥協策として、議事録起こし専門のローカルスタッフがいてもいいかもしれない。
私の場合、教育セクターの問題を1人で抱え込んでしまったことが問題を悪化させたとも思っている。近年、在外事務所において、セクター別ローカル勉強会を企画している事例が多くなってきた。事務所や大使館関係者、専門家、コンサルタント、協力隊員、現地で活動中の日本のNGO、現地の有識者等と、普段から問題点の共有を図って、個別事例を多く把握しておくと良かったと思う。
(4)メリハリのある国別援助戦略
明らかに日本に援助リソースが乏しく、比較優位のないセクターでは、他ドナーをリード役に立てて、日本としてミニマムな貢献に止める勇気も必要だと思う。小規模な事務所であるほど、このようなセクター絞込みは必須である。日本は国際機関にもそれなりの出資、拠出を行なっている。このことを念頭に、場合によっては国際機関を利用して自らは一歩引いてもよいのではないかと考える。日本の二国間援助を、世銀や他の国際機関と同列に扱う必要はない。世銀がリードするなら、引くことも今の日本には必要だと思う。
(5)現場への権限委譲、スキームの弾力的運用
現地対応でことを済ませようとするなら、短期調査費用やアドバイザー的ローカルコンサルタントの傭上、和文報告書の英訳作業等の予算は現地で潤沢に活用できるようにすべきである。プロジェクト形成調査ミッションのように、結局日本から派遣したけれども具体的案件実現に繋がっていないような調査は、わざわざ日本から出すよりも現地対応で置き換えても良い。要するにアウトプットオリエンテッドな投入ができる体制に変えてゆくべきなのだ。
スキームの弾力的運用も必要だと思う。BPEPの場合、複数年度の援助予定額を予めコミットできる方が他ドナーとの協調は進めやすかったのではないかと思う。コモンバスケット方式でなく、パラレル協調融資という形態を取ること自体は日本の無償資金協力のスキーム上仕方がないことであろうが、せいぜい2〜3年分しか「今はコミットできない」というのではなく、せめて他ドナーの時間フレームと合わせて5年間でものを考えてもいいのではないかと思う。
ただ、どうしても援助実施スケジュールの独立性を確保しておきたいというのであれば、@他からのシードマネーが必要な援助形態をとらない、A他からのシードマネー導入に向けて日本側から積極的にドナーに対話を仕掛ける(勿論、ドナーに対する「手土産」的なコミットメントが求められることは必至)、Bシードマネーの拠出ができるような財政支援型の無償資金協力の新規導入、のいずれかの措置が必要だったと思う。
(6)案件の有無に関係なく、日本の窓口が誰なのかをはっきりさせる
BPEPのドナー調整会合の場は、ファンディングのぎらついた議論を除けば、その殆どが、この国の教育セクターをどう改革し、成果に繋げてゆくべきなのかという政策論議に集中する。従って、教育セクターをよく知りもしない一介の事務所員が、異動の度に入れ代わり立ち代わり出てゆくよりも、長期的に固定した方がよい。最初はただの職員でも、いずれ教育のスペシャリストに成長してゆくであろう。ただ、ドナー協調は一方でスピードを求められる世界でもある。即戦力のセクタースペシャリストを、本部採用か現地採用かを問わず早期に張り付け、すぐに成果を挙げてゆける措置もまた必要とも考えられる。いずれにしても、ドナー調整会合の場に出る日本の援助関係者で、コアとなるべきセクタースペシャリストは常に会合に出席する必要がある。一介の事務所員であっても、たとえ苦しくてもドナー会議には出て「顔」を見せることは、「声」を出すこと以上に基本的なことだと思う。
組織のアレンジメントとして、常に教育セクターに強い人材を現地に張り付けられるという保証は必ずしもない。また仮に日本人職員に代わるローカルスタッフを教育担当として配置できたとしても、日本の「顔」を示すためには適宜日本人職員が顔を見せる必要はあると思う。それは、現地事務所の管理職であるかもしれないし、日本から出張で来る本部の国担当、セクター担当であるかもしれない。そのためには、フレキシブルに担当国への渡航が可能な本部の体制も必要となってくるだろう。
(7)あとは本人の努力
これだけ書いてきて、残されたものは本人の自己研鑽努力だと思う。
大使館をいかに巻き込むか、ネパール国内で活動する教育セクターの専門家、協力隊員、NGO関係者、加えて帰国研修員と現在実施中のJICA事業関係者の知見をどう集約し、いかに大使館関係者を教育セクターの問題に振り向かせるか、これはセンスの問題であり、私は当時そこまでのセンスがなかった。JICA採用2部署目で、しかも最初の部署が現場との繋がりが全くない経理部だった人間が、いきなり在外事務所に行ってそのセンスを発揮することは難しい。だが、もし今自分がもう一度あの状況でネパールに赴任する機会があったとしたら、何をどうすればよいのかはもっと鮮明に理解できていただろう。
5.最後に
私がネパールを離れてから既に5年近くが経つ。その間、JICAでは次のような改革や新プログラムが導入されてきた。だから、ここで紹介してきた私の体験談は、今のJICAの在外事務所の置かれた状況とは大きく異なり、改善の方向に向かっているのではないかと思う。
l
国別事業実施計画
l
専門家公募制度
l
個別研修から国別課題別集団研修への組替え
l
無償資金協力ソフトコンポーネント
l
PRSP対応の企画調査員、政策アドバイザー型専門家派遣
l
セクター開発調査とセクタープログラム型無償資金協力
l
在外主導で使える事業予算(在外プロジェクト形成調査、開発福祉支援事業、在外開発調査)
l
分野別課題別ネットワーク
l
他の援助機関への職員派遣
2002年2月、ネパールでは久々の援助国会合(CG)が、「ネパール開発フォーラム2002」と名を変えてカトマンズで開催された。その際の日本側代表団の発言の中に、世銀や欧州諸国が支持するコモンバスケットファンド方式が日本の無償資金協力方式に劣っている事例として、BPEPを挙げているくだりがあった。曰く、コモンバスケット方式では、各国の資金拠出が遅れたために国際入札が遅れ、結果的に学校建設がBPEP第2フェーズ最初の2年間全く進んでいないが、日本の無償資金協力は毎年着実に学校建設を支援してきたと・・・
だが、1996〜98年当時のネパールの状況を知る者としては、日本の無償資金協力がシードマネーを他から必要とする構図が今も変わっていないので、日本が98年度に開けた「空白期間」のために、世銀の資金計画が決まらず、コモンバスケットへの資金拠出が遅れるという状況があったのかもしれないと同情もする。また、@第1次、第2次に比べて日本は無償資金協力の規模を拡大したために、それまで育ってきたオーバーシーア(各郡の学校建設プログラム監理員)を日本プロジェクトに取られてしまい、他地域での学校建設に充てる人材が不足したのかもしれないし、Aプログラム5年間のうち、3年間しか支援しない日本の方式の限界を見越して、コモンバスケットによる学校建設コンポーネントを後回しにした可能性すらあるのだ。だから、国際入札の遅れだけを理由にコモンバスケットが日本の無償資金協力よりも劣っているという議論は私にはおかしいように思える。
また、何よりも、日本は、無償資金協力で建った校舎の単価が、世銀の資金で建った後者の単価よりも圧倒的に高いという事実をどこまで正当化できるのか、調査をきちんとやっていない。これなくして日本方式対コモンバスケット方式の議論を展開するのは、片手落ちであることを理解すべきである。
(2003年1月19日)